全てを投げ捨てて 生きていくことすら、出来なかったんだ。 □■□ 「―――」 不意に響いた物音に、はハッと顔を上げた。 ベッドの向こうの大きな窓。 の場所からは真っ暗な夜空しか見えない。 だけど。 確かに、何かの気配を感じて。 は窓へ近づくと、そっと開けてみた。 夜風がひやりと頬を撫でる。…涙の跡に、冷たい。 「………」 何もない。 当たり前だ。ここは四階。誰かがいる筈もない。 …何を、やっているんだろう。 ついさっき。 ついさっきまで、わたしは、あの街灯の下をホロホロと散歩していたんだっけ。 もう、とてつもなく昔のことみたいだ。 喉がひく、と震える。 泣き腫らした瞳が、再び潤む。 本当に何をやってるんだろう。 でも少し、夜の空気が新鮮で――― 「大丈夫かい」 ふわり、と頬を撫でる手。 は言葉を失った。 意外な訪問者―――浮遊する持ち霊に乗った彼を見つめて。 「……ハ、オ…」 それだけを、ようやく搾り出す。 呼ばれた彼は「ん?」と返しながら、もう片方の手での手を掴まえ、優しく包み込む。 夜風とは正反対の、温かい手。 その動作はひどく――穏やかで。 「なんで、」 「前にも言ったろ。君が泣いてると思ったから」 静かな、声。 「…どうしてそんなこと、わかるの」 「さあ。どうしてだろうね」 ハオが微笑む。 その眼差しに、は思わず唇をきゅっと引き結んだ。 涙が零れ落ちそうになるのを、寸での所でこらえる。 「泣いてもいいよ」 は必死に首を振った。 今は、誰かに泣き顔など見られたくなかった。 ―――そうして。 ようやく、事の重大さに気付く。 「…っ」 慌ててハオの手を振り払い、部屋の中へ身を引いた。 沈んでいた警戒心を、頭の隅から引っ張り出す。 本当に、どうして彼がここに。 「…ちぇ」 そんなの様子にハオは唇を尖らせたが、すぐに笑みを浮かべると、持ち霊の掌からいとも軽い身のこなしで、部屋の中へ降り立った。 二人の距離が、少しだけ縮まる。 「何をしに来たの」 「……ずいぶん警戒されてるんだね、僕」 「精霊の森のこと、わすれたとは、言わせない」 彼は、自分とって不必要なものを排除することに、躊躇いなどない。 それをはっきりと認識した、あの日。 忘れたことはなかった。 改めて思い返して―――今自分が相対している人物の存在感に、立ち竦みそうになる。 は出来る限り力をこめて睨みつけた。 「…だめだよ、“星の乙女”がそんな顔しちゃ」 「………」 そんな軽口にも応対してこないことに気付き、ハオが仕方無さそうにため息をついた。 「本当に、君が泣いていたから来ただけだよ」 「…嘘」 「本当だってば」 困ったように頬をかく。 「…仕方ないな。おい、スピリット・オブ・ファイア。ちょっと席を外しててくれ」 「え」 目を丸くしたの視線の先で、外で待機していた紅い影がフッと消えた。 いともあっさりと。 「ホラ。これで僕は、君に危害を加えられないよ」 「………」 「あ、まだ信じてないみたいだね」 ハオはやれやれと肩を竦める。 「…ま、いいや。此処に来たのはね、本当の本当に、君が泣いていたからだよ」 「……ないてなんか、ない」 「強情だなあ。記憶をなくしてるってのに、そういうところはのままなんだから」 ―――また 「また、その名前…」 「気になる? 教えてあげようか。せっかくの二人きりの機会だ」 「………」 意地悪そうな目が此方を見つめる。 はぐっと唇を噛んだ。 「いい」 「どうして? 知りたいんだろ」 「知りたくないっ…」 嘘だ。 本当は、知りたかった。 詩は思い出せても―――その『』という名に関する記憶は、全く戻ってこない。 空虚な記憶の穴に、不安だけがさざめく。 でも。 聞いちゃいけない。 思い出しちゃいけない。 そんな思いも、あって。 ゴルドバと名乗るあのパッチの集団が来た時と、似たような感覚だった。 だから。 「そんな名前なんか、しらない…!」 口から飛び出したのは―――拒絶だった。 それは半ば、己へ言い聞かせるような。 深く考えた末の台詞ではない。 ただ、疼く好奇心を無理矢理ねじ伏せるために、吐いた言葉だった。 わたしはという名前じゃない。 わたしは、だ。 ――その名前に関わっちゃいけない。 「なんて、しらな―――」 「黙れ」 突然がっと口を押さえられ、続く筈だった言葉は喉の奥に掻き消えた。 口を覆う、固い感触。 いつの間にかハオの身体が、顔が、近かった。 此方を射抜くように見つめるその視線に―― は、息を呑んだ。 背筋がスッと冷たくなる。 冴え冴えと冷たい、底冷えするような双眸。 低い、低い声。 「記憶がないこと、それ自体は悪いことじゃない。君は、きちんと思い出したいと思っている。だから君の無知は罪じゃない。でも」 ぐ、と。 頬に、彼の掌が、食い込む。 「否定するな。拒絶するな」 息をすることすら、その瞬間は出来なくて。 視線を、そらせない。 「君はだ。誰が何と言おうと、君自身が忘れてしまおうとも、それは永遠に変わらない。…は、君自身だ」 言葉だけが、ずしりと重く圧し掛かってくる。 動くことも出来なかった。 視線に、言葉に、心身ともに拘束されてしまったかのように。 どうして彼が怒っているのか、理由はわからない。 けれど。 その気迫に、ただただ、呑まれてしまった。 「哀れな。愚かな。何も覚えていないばかりに、君は二人の男の為に泣いていた。記憶が残っていれば、あんな下らない事で悩むこともなかったろうに」 「…!」 (リゼルグと…蓮のこと、知ってるの…?) 「……ああ、少し強くし過ぎた。痛かったね。ごめん」 ようやくハオはの様子に気付き、手を離した。 同時に、ふっと纏っていた怒気が抜けていく。 尋ねたいことがあった。 でも―――動けなくて。 ハオは、硬直したままのの頬を、するりと撫でる。 「赤く、なっちゃったな」 ぽつりと呟いた後―― ぱん 乾いた音が響き、一瞬の目の前に火花が散った。 じん、と頬に拡がる熱。 「……は、お…?」 張り飛ばされた頬に、恐る恐る触れて。 は呆然と彼を見上げた。 ―――思考が、追いつかない。 けれど彼は、顔色一つ変えておらず。 それどころか、柔らかく微笑んでいてすらいて。 「…そろそろ君は、思い出すべきだ」 ぎゅうっと 抱き締められた。 息が詰まる。 背中が、軋む。 痛い。 苦しい。 なのにやはり動けなくて。 まるで金縛りにでもあったかのように。 密着する身体を、押し返すことも出来なかった。 「いつまでのうのうと埋没しているつもりなんだい、君は」 それでも声音はどこまでも優しく。 幼い子に諭すように。 首筋に吐息がかかる。 ぞわりと肌が粟立った。 何かが、おかしい。 「…っや、だ……離して」 ようやく己が動けなかった理由がわかった。 怖かったのだ。 いつもと何かが違う、彼が。 上手くは言えない。 でも全身にじわじわと広がっていくのは、確かに恐怖だった。 「離して!」 耐え切れなくなって、渾身の力を込めてハオの腕を振り払う。 一瞬その身体が離れ解放されかかるも、素早く両手首を掴まれた。 ぎりぎり、と彼の指が食い込む。 余りの痛みに、は顔を歪めた。 「っ…」 「駄目だ」 また、ハオの鋭い双眸とかち合う。 まるで心の底まで見透かされそうな真っ黒な瞳。 深い、深い 底なしの闇。 「」 どくん。 心臓が跳ねる。 ざわざわと意識が揺れる。 そして。 (え――?) 今度こそ。 頭の中が真っ白になる。 唇に落とされた、密やかな感触に。 それは場違いなほど、優しい温もりだった。 その時ばかりは、彼のあの突き刺すような鋭さも、全て頭から吹き飛んでしまうくらいの。 優しい、優しい感触だった。 ハオがゆっくりと離れる。 は何も言えずに立ち尽くす。 今のは―――何…? そう思った瞬間。 ハオの拳が、鳩尾に深く食い込んだ。 激しい鈍痛が走り―――意識がぐらりと傾く。 (…あ…) 視界が、暗転する。 「――――帰っておいで。」 そのままずるずると倒れこんだの身体を、ハオは微笑んで、再び強く抱き締めた。 □■□ 『葉王』 いつからか朝、目が覚めて一番最初に味わうのは、まだ世界が続いていることへの若干の落胆と、君の声を、顔を、まだ思い出せることへの安堵だった。 「―――お帰りなさいませ、ハオ様。……ハオ様?」 ラキストが愛想よく出迎えてくれる。だが僕はそれに応えず、ただ五月蝿いと一言言ってその場を離れた。こう言って置けば、恐らくあの忠実な部下のこと、しばらく自分の傍へは誰も近づけないだろう。オパチョでさえ。 目の前で焚き火の炎が揺れる。ぱちん、と火の爆ぜる音。熱気に当たり、頬が熱くなる。 『葉王』 意識の奥から声が響く。それは、先ほど訪れてきた少女のものよりも、若干大人びて低い。 気を失った少女は、弟達の元に置いて来た。 今はまだ取り返さない。まだ、もう少し。 彼女が自分の足で、此処へ来るまで。 錠は解いた。 あとは、扉を開かれるのを待つのみ。 「………」 頬杖をついて、ゆらゆらと揺れる炎を見つめる。 そうして意識を侵蝕するのは、何百年も前から繰り返してきた疑問。心底下らなくて―――気が滅入る、疑問。 ―――君は本当に存在したのだろうか。あの時共に過ごした時間は、本当に夢じゃなかったのだろうか。眩しいほど、しあわせすぎた記憶。 答えられる者など一人もいない。だから何度も何度も繰り返す。 記憶を共有することは出来ない。あの頃のことを覚えているのは、自分だけなのだ。そしてそれは同時に、自分が忘れてしまえばなかったことになるということ。 君の存在が、君との時間が 全て無へと還ってしまうこと。 同じ時間は二度と戻らない。だからこそ、また、つくるのだ。今度こそしくじらないように。 誰にも邪魔などさせない。 やっと見つけたんだ。 やっと、やっと。 また逢えたんだ。 「…」 残影の向こうで彼女が微笑む。 嗚呼、もう、輪郭がおぼろげだ。何年も前からずっと。手のひらから、指の間から、少しずつ零れ落ちていく。止められない。止められない。何度も思い出した。何度も繰り返した。その度に記憶は劣化していく。色褪せて、ぼやけて、欠けていく。いや待て、顔だけじゃない…彼女はこんな声をしていたか? だが確かめる術などどこにもない。全ては己の記憶の中にしかないのだ。だけどあともう少し。あの何千回、何万回と繰り返してきた下らない疑問も、このもどかしさも。もうすぐすべてが終わる。 君を忘れない。忘れたくない。忘れてなるものか。 無かったことになんて、させない。 だから、はやく。 帰っておいで。 |